自分の為に生きること。誰かの為に生きること。

向上心のある生活をすれば得られるものがある一方で、失うものもある。

これと同様に、堕落した生活をすれば、得られるものがあり、失うものもある。

向上心のある生活では、堕落した生活で得られるものを得られない。

堕落した生活では、向上心のある生活で得られるものを得られない。

つまり、どちらの選択をしても、欲しいものを全て得ることは叶わない。

何かを得ることは、そのまま何かを捨てることでもある。

我の生活は、そのような選択でできている。

向上心のある生活が良くて、堕落した生活が悪いということではなく、自分がどちらを選択するかの問題だ。

善悪の問題ではなく、生き方の選択の問題だ。

人を愛する、愛さないというのも、同様のことが言えないだろうか。

人を愛することで、得られるものがあり、失うものもある。

人を愛さないことで、得られるものがあり、失うものがある。

人を愛しても、愛さなくても、全てを手に入れることはできない。

愛する、愛さないは、善悪の問題ではなく、生き方の選択の問題なのだ。

しかし、現在我が生活する社会において、愛する事が過度に美化され、愛する、愛さないの問題が、選択の問題から善悪の問題にすり替えられている傾向があるのではないだろうか。

その結果、恋愛が進むにつれて愛することが義務となり、余裕を失い疲弊する。

それは、恋愛の終わり、結婚の悲劇のよくある姿の1つであはないだろうか。

日本における恋愛結婚での離婚率は約40だそうだ。これはお見合い結婚での離婚率(約10)の約4倍。

自分の生き方は自分で決める。

自分の選択に責任を持ち、自分の命の始末さえキチンとできれば、人間はどう生きてもいい。

自分が自分の生きたいように生きている以上、他人に対して愛する義務を課すことなどできない。

他人も、あくまで、その人の生きたいように生きればいい。

それを認めた時に訪れる、孤独と自由。

それがあって初めて、愛する事が権利になり得るのだ。

少し冷たい考え方だろうか?

しかし、このことを十分承知したうえでの恋愛と、そうでない恋愛では、やはり違うと思うのだ。

愛の限界を承知した上で、お互いの余裕の範囲内で行われる恋愛と、愛に幻想を抱いている恋愛では、やはり違うだろう。

自分の為に生きることと、誰かの為に生きることが矛盾しないための必要条件は、

自分に生き方の選択権があるのと同じように、他人に生き方の選択権があることを認めること。

そしてそれは、自分と相手の人間関係が壊れる可能性がいつでもあることを認めることでもある。